2006年01月15日

靖国問題その5

『靖国問題』 (高橋哲哉著 ちくま新書出版)の感想等
<・・・・・>は私の考え
●感情の錬金術
戦死者を出した遺族の感情は、ただの人間としての限りには悲しみでしかありえない。
↓↓↓
国家的儀式
↓↓↓
悲しみ→喜び
不幸→幸福
※180度逆のものに変わる。

 遺族が家族の戦死を喜ぶようになり、それに共感した一般国民は、戦争となれば天皇と国家の為に死ぬことを自ら希望するようになるだろう。
 死者が顕彰され、遺族がそれを喜ぶことによって、他の国民が自らすすんで国家の為に命を捧げようと希望することになることが<国民にとって>必要なのだ。

→<鎮魂のみではなく顕彰するものだというわかり易い説明です。特に特殊なことを言っているのではなく普通のことを顕彰に重きをおいて表現しています。ただし、ひとつ忘れてはいけないのは、戦死者は靖国に英霊として祀られるからといって、戦死者の家庭に於いてはそれぞれの家庭のやりかたで親族の死を悼んでよいことは忘れてはいけません。>

●葦津珍彦(あしづうづひこ)への批判
 葦津は「大多数の国民は将兵の「武運長久」を祈り、将兵も勝利を得て生還することを希望したのは当り前の人情である。その人間として当然の希望人情が達せられないでやむなくして非命にたおれた時に、その死を悲しんで靖国神社に祭ったのである。靖国神社の祭りは、明治天皇の思召による特殊の懇切な勅祭とされたが、それは一般の別格官幣社のやうに、史上有名な特殊の功臣を遠く追想して祭神とされたのではなく、その功業の高下大小にかかはらず、その非命を悲しまれて、戦後直ちに追悼合祀されたのであって「戦死を以って極楽往生の道」だと教えたわけでは決してない。・・・・・、生還を切望していたけれども、やむなく戦死した、その結果を悲しんで行われる懇切な祭りである。その悲しみの結果として行われた祭りの精神を逆立ちさせて解釈し、それを「戦死させる目的」をもって、靖国神社の祭りが行われたかのように曲解して「反靖国」「反国家神道」の理論構成をしているような新奇の主張が、いつまでもつづいているのは敗戦日本人の浅薄にして不可思議の論である。」

→→→葦津は、靖国神社の祭りをあたかも戦死者を顕彰するものではないかのように論じている。

→→→<靖国神社は戦死者を顕彰するという面もあるが葦津氏の言うような面もあるのである。一義的には戦死者への追悼であり、それから英霊の顕彰となるのであり顕彰のみを強調するは歪んだ意見である。明治天皇は、不運にして戦いで死んでいった国民を純粋に永遠に追悼したいと願ったのであり、靖国神社を国民を戦場へかりだす道具とする、または戦場での死が大恩に報いることだなどと微塵も思われていなかったことは明白だ。もう一度繰り返す、明治天皇は、永遠に追悼したいと思ったのだ。→然るに、A級戦犯合祀から天皇陛下が参拝されないのは永遠に追悼すると言った明治天皇の意思に反するのは明らかである。よって、一日も早い天皇陛下の参拝を望む。戦勝敗戦にかかわりなく戦死者を天皇陛下が靖国神社で追悼するのは責務であると言えましょう。>

●1970年までにBC級戦犯合祀

●1978年 A級戦犯合祀(1979年合祀明るみに)

●靖国神社への「A級戦犯」合祀が批判の対象となる理由
 彼らを「英霊」=「護国の社」として顕彰することが、彼らが指導した戦争を侵略戦争ではなく正しい戦争として正当化することにつながると考えられるから。
 80年代に入って、「戦後政治の総決算」を唱えて登場し、新国家主義の路線を追求した中曽根首相の動向が、日本軍国主義の復活を強く警戒する中国政府の許容限度を超えたのであろう。以後一貫して中国政府はA級戦犯が合祀されている靖国神社に日本の首相が参拝するのはかつての日本の侵略戦争を正当化することになると強く反発してきた。

→→→<1979年にA級戦犯合祀が明るみになってからも首相の靖国参拝は行われているが日本の軍国主義を復活させたという事実も気配も現在のところまったくありませんが?つまり、この反発は的外れであったことを現実が示しているのではないですか?中曽根首相が中国の抗議によって靖国参拝を中止したとき、中国は天安門事件で各国から批難にさらされており、国内でも共産党政権の存続が危機に瀕していたのであり、藁をも掴むおもいで日本による中国批判の矛先を天安門事件へ向けさせないようにこの問題に噛みついたのである。日本のどこかに落ち度があったのでは?などという日本側の態度は中国の思う壺である。>

●中国の政治的譲歩
 中国政府は、この問題を「A級戦犯」合祀に絞り込むことによって問題を限定し、一種の「政治決着」を図ろうとしているのである。
 中国政府の一般的見解・・・中国侵略戦争の責任は日本軍国主義者にあったのであり、一般の日本国民にあったのではない。侵略戦争を指導した「日本軍国主義者」以外の日本「人民」は、中国「人民」と同じように、日本軍国主義の被害者であったというのが、中国政府の立場なのだ。
 この立場には二つの意味がある。
 @日本国民に向けて中日友好を訴え、日本国民が中国人民とともに「日本軍国主義の復活」に反対 するよう呼びかけ。
 A戦争で甚大な被害を受けたけれども、中国の発展の為には「民族復讐主義」を抑えていこうとい う自国民に向けた説得の意味。

→→→<中国政府が日中共同声明の為の作業時になされた上記のような中国国民に対する説明には日本国民は束縛される必要などない。中国政府が勝手に行ったことなのだから。>

●「靖国問題」の解決の方向
@政教分離を徹底することによって、「国家機関」としての靖国神社を名実ともに廃止すること。首相や天皇の参拝など国家と神社の癒着を完全に絶つこと。
A靖国神社の信教の自由を保障するのは当然であるが、合祀取下げを求める内外の遺族の要求には靖国神社が応じること。それぞれの仕方で追悼したいという遺族の権利を、自らの信教の自由の名の下に侵害することは許されない。そこに祀られたいと遺族が望む戦死者だけを祀る一宗教法人として存続することになるだろう。

@Aの上で

B近代日本のすべての対外戦争を正戦であったと考える特異な歴史観は、自由な言論によって克服されるべきである。

C「第二の靖国」の出現を防ぐには、憲法の「不戦の誓い」を担保する脱軍事化に向けた不断の努力が必要である。

→→→<@について・・・現在の靖国神社は戦争を国家と結託して戦争を煽るような施設ではない(戦前のことは棚上げして)。これまでのように靖国神社の国家の戦争によって戦死したものへの英霊としての追悼を今後の戦争によっても継続し宗教に関係なく全ての戦死者を祀るべきだ。新たな追悼施設は国民によって歓迎されないだろう。すでに、靖国という施設があるのであるからそれを利用するのが経済的だし、100年以上もそのようにしてきた専門の施設なのだから、靖国が最適だ。どのような国家の追悼施設もその国の宗教から離れて存在しない。ここは、日本なのだから日本教に基づく施設が利用されているのは当然のことだ。なぜ、日本だけが国民によって歓迎されない国民の宗教心の基づかない新たな追悼施設をつくるひつようがあるのか。一度戦争に負けた位で卑屈になり、この施設の存立の意味を忘れるべきではない。

Aについて・・・合祀取下げを求める内外の遺族の要求は戦死した本人の意思と同じではない。特に、台湾・朝鮮人の戦死者は無理やり徴兵された訳ではなく、自ら志願して戦場に赴いたのであるから、遺族が本人の意思を無視して戦後の感情でとやかくいうべきではない。

Bについて・・・主に戦争が悲惨なものだという理由だけで全ての戦争が正義ではないと決め付ける輩と話すのは時間の無駄というものだ。彼らは歴史から何も学ばないのである。

Cについて・・・もし、彼らが第一次大戦と第二次大戦から戦争の教訓を学んだとしたなら、非武装や不戦などという結論には達しないだろう。彼らは、自分たちの考えに陶酔している憐れなナルシストでしかないのだ。>


<私の感想は以下にかえる>
以下『日本はそんなに悪い国なのか』 上坂冬子著 PHP文庫出版
マッカーサーは靖国神社を焼き払おうとして念の為、終戦直後から日本に駐在していたバチカンの代理公使ビッテル神父に、教皇使節団としての統一見解の文書による回答を要望しました。その回答は次の通りです。
「自然の法に基づいて考えると、いかなる国家も、その国家の為に死んだ人々に対して、敬意をはらう権利と義務があるといえる。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。無名戦士の墓を想起すれば、以上のことは自然に理解できるはずである。
 もし、靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残ることであろう。歴史はそのような行為を理解しないに違いない。はっきりいって、靖国神社を焼却することは、米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。
 靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというのなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家の為に死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを、進言するものである。」
マッカーサーはこの答申を尊重して焼却を中止しました。


→→→<「いかなる国家も、その国家の為に死んだ人々に対して、敬意をはらう権利と義務がある」ならば、日本国の総理大臣及び天皇陛下は靖国神社に参拝する権利と義務がある。日本国の総理大臣と天皇陛下は靖国神社を参拝して何の問題も無い。何かに対して、躊躇などせず堂々と国の為に命を失った者を追悼して欲しい。戦争という国策によって死んだ者を国が追悼するのは当然のことだ。その戦争が正戦であったか否かで追悼するかしないか議論することは誤りである。アメリカのベトナム侵攻は今では明らかに正戦ではない。にもかかわらずアーリントン墓地でその戦死者は眠っている。このことを考えただけでも、その国の為に戦いたおれた者にたいして政府が敬意を払うのは当然のことだ。正戦でないからといって、墓所に眠っている亡骸を別の場所に移すのは国の為に亡くなった者に対する辱めである。A級戦犯の霊を分祀するというのはそれと同じことだ。>
posted by ウブドちゃん at 02:36| Comment(1) | TrackBack(1) | 時事、思いついたこと。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメント有難うございました。サンフランシスコ平和条約第十一条【戦争犯罪】について本日追加記事をアップしました。日本はこの「判決を受け入れ」て刑の執行を行いました。この時点で日本の戦争犯罪に関しては全て終結したと思っています。
Posted by カピタン at 2006年03月23日 18:53
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サンフランシスコ平和条約
Excerpt: ・・・・・昨日の当プログ記事「戦争を知らない人のための靖国問題」の追加記事です。現在中国が首相の靖国参拝問題やA級戦犯合祀を取り上げて \"いちゃもん\" をつけ、最近は韓国までが..
Weblog: 観 天 望 気
Tracked: 2006-03-23 17:41
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